すごく、児童虐待に感情的反応が起こるほどの思い入れはないのですが、
あ、これ、と思うものに繋がっていくと、気がついたら児童虐待に関するところに行きついている。
養育里親→虐待児の受け皿のところ
CAPNA名古屋→虐待メール相談
そして今回、ONE nurseの看護師の活動団体で依頼を受けたのが
オレンジリボン(児童虐待防止)のイベント
わたしの中で救いたいのはもちろん、被虐待児の命ではあるけれど、そこまでに至る経緯が必ずある。
愛の誤解。
親が自分の知ってる愛のカタチが外側の世界からみたら『虐待』という定義なっていた
この親も被虐待児であったということ
その親をサポートすることの方がとてもやりたいことであり、ここにサポートを厚くすることが、親子同時にサポートできると思っています。
家族や夫婦の関係にアプローチするシステムがなぜ、日本にはほぼないのだろうか。
今回、イベントに参加して、隣りに市の児童虐待防止の部署の方とお知り合い、わたしの中にある矛盾を話した。
一時預かり(親の同意あり)でも里親と実親が顔を合わせないシステムになっていること
「実親の相談員もその子を預かってくれる里親さんがどんな人知らないんですよね」と。
よくわからない、慣例行事遂行のための町内の寄合より、こっちの人たちが顔を合わせることの方がよっぽど必要だと思うけど、と感じた。
地域のコミュニティとしてやりたいことの方向が一つ広がった感覚
やりたいこと、たくさんあるなあ。
そんなところにいると、インスタのDMに『養育里親の活動していることにとても興味あります!』とメッセージをくれるママさん。
たくさんいる。やりたいと思っている人たちは。
現実化できるところから一つずつ動かしていく
\ わたしのこころ わたしのからだ /
目に見えないけど、必ず何かが動いてる。
それが「運」と「勘」と言う、自分にはどうにもできないものだと思っていた。
持って生まれた運命は変えることはできなくて、持って生まれた生得的な感覚はどうにも自由には扱えない…そう思っていた。
それを全く覆すは学びとなったのがキャラクトロジー心理学です。
次元を超える多角的なもの見方と、生得的性格が誤解というトラウマからおこっているということ。これを自分の体験と自分の内面にひたすら、ひたすら、アクセスすることで、想像の範疇を超える現実に今いるというわたし。
そして、今まで、天職だとまで思ってきた、看護師の仕事から、人という未知なる生命体のこころと身体との繋がりのご誤解が、病気や人生の不具合に影響をしているということを知り、そこからどうしていくことが心地よい自分でいられるのだろうか。
そんな、目に見えないものから、わたしが持つ、超感覚知覚とか、身体から出てくる言葉を伝えています。