いなければならない、しなければならないのところの世界にいた時はとても当たり前すぎて何も感じなかった。
これは、感じないようにしていたことなんだと最近とてもよく思う。
自分がいる世界、所属するグループが安心、安全であるのフィールドを感じつつも
新しいグループに所属すると、やはり、いつもの「恐怖からヤマアラシ🦔のようなフィールドで居続ける」をしていることに気がついた。
講師と受講生という関係性であると、とても一瞬にして、ここに入り、相手にジャッジをするか、自分ができていないの自罰にいく。
そう。自分を被害者にする子供の意識にいることに気づき、一つ一つ、「何を感じているのか」「この感覚のトラウマ」を精査していく。
そして、また一瞬に他の受講生と講師との関係性のエネルギーから、幼少期の兄弟が何やら親に怒られているのを見ている感覚に入っていく。
あーこれが固定化させることなんだ。
その場所でできることはここに気づくことが精一杯だったが
ただひたすら自分の内側を見続けていたのは確かだった。
帰り際、講師(といっても、この講習が終わったら同等の立場になる人ですが)が、友人のような感覚で話かけてくれた。
やはり、私が世界を拒絶していたのだと、まざまざと感じた。
身体は呼吸ができないほどの感覚はあり、背中の重さを感じているのはわたし。
1人になり、身体を感じながら、激しい感情のエネルギーが流れ、過去世的な悔恨を癒す感覚が流れてきた。
あの時はこんな形で癒す方法を知らなかった。
自分の感覚にゆっくり繋がれる内側にあるスペースと時間、それを持てる豊かさが、今あることに湧き上がるような、満たされる感覚だった。
ほんとに小さな、小さな、外側の出来事に身を呑み込まれるような感覚から、拒絶して、自分とも他人とも繋がれない狭いところに入っていく。
もう、ここは安全なところなんかじゃない。
子供の時に安心、安全と誤解してきたところであって、今、大人のわたしには、障害でしかないところ。
自分が豊かなところにいること。
それが周りへの豊かな循環を作ることなんだと、新しいプロジェクトが動きだす可能性の偶然の出会いは
全てがわたしに用意されてる体験なんだと感じた。
\ わたしのこころ わたしのからだ /
目に見えないけど、必ず何かが動いてる。
それが「運」と「勘」と言う、自分にはどうにもできないものだと思っていた。
持って生まれた運命は変えることはできなくて、持って生まれた生得的な感覚はどうにも自由には扱えない…そう思っていた。
それを全く覆すは学びとなったのがキャラクトロジー心理学です。
次元を超える多角的なもの見方と、生得的性格が誤解というトラウマからおこっているということ。これを自分の体験と自分の内面にひたすら、ひたすら、アクセスすることで、想像の範疇を超える現実に今いるというわたし。
そして、今まで、天職だとまで思ってきた、看護師の仕事から、人という未知なる生命体のこころと身体との繋がりのご誤解が、病気や人生の不具合に影響をしているということを知り、そこからどうしていくことが心地よい自分でいられるのだろうか。
そんな、目に見えないものから、わたしが持つ、超感覚知覚とか、身体から出てくる言葉を伝えています。