子どもたちが来ることになりました。
これが、なかなか、ややこしい。
お母さんと会わないため?なのか全く意図がわからないのですが、お母さんは里親相談員さんがいる事業所に彼らを連れていく→里親支援相談員が彼らわたしの家に連れてくる、という形のようです。
里親支援相談員の事業者が一番遠くて、そこにお母さんはわざわざ車を借りて、彼らを連れていったとのこと。
彼らの家とわたしの家の距離の方がよっぽど徒歩でも可能なんですが(^_^;)
バウンダリーを引くという概念からなのだろうと思うけど、なんかちょっと違う感じがわたしの中にはあります。
保育園の後そのままの状態で来られ、5歳の子は「お母さんがいい」と泣いてきました。
それはごく当たり前の正常な反応です。
3歳の子は来るなり「ばあちゃん!あのね、」とうちの母にお話を始める。そして、とても距離感が近い。
大人としては寄ってきてくれるので「かわいい」と思うけど、うちの子どもたちがこれぐらいの時、初対面の人への対応ではなかった。
そんなこんなで3泊4日が始まりました。
わたし1人では到底無理!
わたしが主導で立っているけど、食事は母がいきいきと、「何食べたい?」と台所に立ち、子どもたちが歯磨きを嫌がれば「磨かんとね、こんな風になるんだよ」と突然、自分のほぼ総入れ歯を外したり(⌒-⌒; )(これは娘も衝撃的すぎた(^◇^;)と)
娘の子どもたちの遊ばせ方はとても寄り添って上手で、彼らも娘がバイトに行ってる間ずっと「お姉ちゃん、まだ、帰ってこない?」と聞いて来るし。
旦那さんは一緒に戦隊モノの番組を見て、彼の膝の上に座らせて。
昔の大家族はこうやって、子どもたちが自分と他者との関係性で育まれ、たくさんの事を学ぶことができたのが『家庭』だったのだろうと。
経済的に豊かになって、急速に家族の形が変わり、あまりにも、子どもたちが育まれる環境が過酷になっていく感覚。
初めてのお泊まりが終わり、後日、里親支援相談員さんにお泊まりの時の様子をお伝えし、来月もお願いしたいとお母さんから連絡が来たとのこと。
子どもたちが「行きたい!」と喜んでいると。
お母さんもそこでホッとしたのか、自分が一緒にいると子どもたちに手を出してしまうこともお話され、お母さんにもサポートの相談員が対応することになったそうです。
ニュースの悲劇が起こる前にできるサポートがたくさんある。
娘が小学校の時、虐待されて亡くなった子どものニュースをみて
「うちにこればよかったのに」そう呟いたこと。
こういうカタチで現実化される。
ハートの奥が震える感覚を味わっています。
\ わたしのこころ わたしのからだ /
目に見えないけど、必ず何かが動いてる。
それが「運」と「勘」と言う、自分にはどうにもできないものだと思っていた。
持って生まれた運命は変えることはできなくて、持って生まれた生得的な感覚はどうにも自由には扱えない…そう思っていた。
それを全く覆すは学びとなったのがキャラクトロジー心理学です。
次元を超える多角的なもの見方と、生得的性格が誤解というトラウマからおこっているということ。これを自分の体験と自分の内面にひたすら、ひたすら、アクセスすることで、想像の範疇を超える現実に今いるというわたし。
そして、今まで、天職だとまで思ってきた、看護師の仕事から、人という未知なる生命体のこころと身体との繋がりのご誤解が、病気や人生の不具合に影響をしているということを知り、そこからどうしていくことが心地よい自分でいられるのだろうか。
そんな、目に見えないものから、わたしが持つ、超感覚知覚とか、身体から出てくる言葉を伝えています。