こころの学びをするまで、
「今にいない」ということに全く気づきませんでした。
というより、そういう概念すらなかった。
毎日、目の前のこなすことで、身体を動かし、思考を動かし続けるこのが「今に生きる」で
やることが与えられない時、身体を動かし、思考を動かしていない自分は「生きていない」と誤解していた。
これは幼少期の親の姿をコピーしているのだなと。
父を急逝して、自分の存在意義を外の世界の「お世話するから自分の価値がある」に見出してきた母の無気力な様子を見て思う。
多分、彼女も小さい時の親の姿から「そうに違いない」と信じて生きてきたからなのだろう。
義父が末期がんと診断され、余命3ヶ月ぐらいと言われてその期間も過ぎ、告知から半年を過ぎる。
それでも、もう、食べられ無くなってかなり状態は厳しい状況。
元々、認知症の義母と2人で同じ施設にお世話になっていたが、義母の認知症が進み、その施設では対応が難しいといわれ、認知症専門の施設に移ってから半年。
最初は義父のことを気にしたり、「どうせ、私は捨てられた」と言ってみたりとで、ちょっと落ち着くまではと2人を合わせることはなかった。
でも、ここ最近、急に不穏な状態が続き、夜中に泣き叫んだりして、施設側から精神科受診を勧められた。
そして、息子の私の旦那さんが彼らの状態を受け止められないところにいる。
緊急事態宣言も解けて、「もう、今、会わないと、二度と生きてるうちに会えなくなる気がする。それに、義母が不穏なのは、義父の状態がわかるからだと思う。長年の看取りをしてきた訪問看護師から見立てでね。」と旦那さんに伝える。
それでも、彼は動くことには躊躇があり、私の息子と娘もこの話を聞いて「いや、それは会わせてあげようよ。俺たちも一緒に行くから」と家族で義母と義父を合わせることとなった。
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\ わたしのこころ わたしのからだ /
目に見えないけど、必ず何かが動いてる。
それが「運」と「勘」と言う、自分にはどうにもできないものだと思っていた。
持って生まれた運命は変えることはできなくて、持って生まれた生得的な感覚はどうにも自由には扱えない…そう思っていた。
それを全く覆すは学びとなったのがキャラクトロジー心理学です。
次元を超える多角的なもの見方と、生得的性格が誤解というトラウマからおこっているということ。これを自分の体験と自分の内面にひたすら、ひたすら、アクセスすることで、想像の範疇を超える現実に今いるというわたし。
そして、今まで、天職だとまで思ってきた、看護師の仕事から、人という未知なる生命体のこころと身体との繋がりのご誤解が、病気や人生の不具合に影響をしているということを知り、そこからどうしていくことが心地よい自分でいられるのだろうか。
そんな、目に見えないものから、わたしが持つ、超感覚知覚とか、身体から出てくる言葉を伝えています。