座学が終わったら、今度は体験研修。
例年であるなら、児童養護施設にいって1日一緒に子供たちと過ごすというものだそうですが、
ここもまた、コロナ禍という『密です!』『感染予防』というところから、「見学実習」ということに。
わたしの行った施設は「少しの時間なら、触れ合ってもいいですよ。」と、1時間ほど、子どもたちと一緒に過ごしました。
4〜5歳の子たちで、いずれも母親が育てられないか、虐待を受けてきた子供たちでした。
天真爛漫の子どもの年齢なので、遊ぶことはその年齢の子供たちと変わらないけど、とにかく、距離感が近い。
はじめまして、とあった数分後なのに、お尻をくっつけてきたり、すっと、膝に座ってくる。
大人としては、「まあ、かわいい!」と嬉しいものですが、よくよく、自分の子供の幼少期を思い出すと、会って数分の大人の膝には座らない。
まず、一旦、警戒しながらわたしにしがみついていて、少しずつ、慣れてきて、からという感じだったなあと。
これがアタッチメント障害の『脱抑制型対人交流障害』というものなのだ、と公認心理師試験のお勉強にもなったのです(^^)
やっぱり、体験的に学ぶことはどれだけ自分の中に理解として入るのか。
そんな感覚での半日でした。
ここまで修了し、書類も提出して、ここから数ヶ月、児童相談所と市町村での審議に入っていく。
数ヶ月後、「そろそろ何か書類が届くのかなあ」と思っていたところ
児童相談所から
「本日をもちまして、養育里親の申請が通りました。で、ご相談なんですが、今日の夜からお一人お願いできませんか?」
えーーー!今日決まって、今日なのー!
そんな感じで里親になることになりました。
\ わたしのこころ わたしのからだ /
目に見えないけど、必ず何かが動いてる。
それが「運」と「勘」と言う、自分にはどうにもできないものだと思っていた。
持って生まれた運命は変えることはできなくて、持って生まれた生得的な感覚はどうにも自由には扱えない…そう思っていた。
それを全く覆すは学びとなったのがキャラクトロジー心理学です。
次元を超える多角的なもの見方と、生得的性格が誤解というトラウマからおこっているということ。これを自分の体験と自分の内面にひたすら、ひたすら、アクセスすることで、想像の範疇を超える現実に今いるというわたし。
そして、今まで、天職だとまで思ってきた、看護師の仕事から、人という未知なる生命体のこころと身体との繋がりのご誤解が、病気や人生の不具合に影響をしているということを知り、そこからどうしていくことが心地よい自分でいられるのだろうか。
そんな、目に見えないものから、わたしが持つ、超感覚知覚とか、身体から出てくる言葉を伝えています。