母の78歳のお誕生日でした。
生家はお誕生日を祝ってお料理を食べる、みたいなことがないところでした。
両親共そういうことをされていなかったからという感覚がとは思ってます。
一方、わたしの旦那さんのお家はお誕生日はケーキは必須。というお家で、わたしの家族はその習慣でお誕生日はケーキが習慣となっていました。
父が亡くなり、50年ぶりの一人のお誕生日。
わたしの子供たちは『お誕生日はケーキでお祝』なので、夕食もみんなで食べようと企画して、大賑わいの夕食でした。
すき焼きでケーキでお花があって。
自分のために誕生日をしてもらうということに「こんなことしてもらって気がずつない(名古屋弁で心苦し)わ」と、いつもの『受け取らない』のところにいる。
それでも屈託なく、素直に『おばあちゃんのお誕生日の歌うよー!』という孫たちの声にみんなにお祝いしてもらうを受け取る体験を受け入れた。
父が亡くなり、外側の「どう振舞えばいいか」というところから動くことが無くなってしまうと、「自分のために、自分がしたいことで動く」ということが分からず、1日何をしていいのかと、うつっぽくなっていたところに、人が集まると、動きが全く変わっていた。
この幼少期からのパターンが老いの方向に向かわせていく。
それでも感覚で体験出来ることがあるならば
新しいエネルギーの流れの変化が老いの流れにも変化にもなると思っている。
まだ、たくさん、受け取るものがあると思います。
お母さん、お誕生日おめでとう
\ わたしのこころ わたしのからだ /
目に見えないけど、必ず何かが動いてる。
それが「運」と「勘」と言う、自分にはどうにもできないものだと思っていた。
持って生まれた運命は変えることはできなくて、持って生まれた生得的な感覚はどうにも自由には扱えない…そう思っていた。
それを全く覆すは学びとなったのがキャラクトロジー心理学です。
次元を超える多角的なもの見方と、生得的性格が誤解というトラウマからおこっているということ。これを自分の体験と自分の内面にひたすら、ひたすら、アクセスすることで、想像の範疇を超える現実に今いるというわたし。
そして、今まで、天職だとまで思ってきた、看護師の仕事から、人という未知なる生命体のこころと身体との繋がりのご誤解が、病気や人生の不具合に影響をしているということを知り、そこからどうしていくことが心地よい自分でいられるのだろうか。
そんな、目に見えないものから、わたしが持つ、超感覚知覚とか、身体から出てくる言葉を伝えています。