義父が亡くなりました。
3年ほど癌で闘病し、ここ半年はなじみの介護施設で痛みもなく、薬も使わず、介護の力で自然に任せてとても穏やかに息を引き取りました。
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生きてる肉体がある間に触れ合うというサポートをしてから、20日後のことでした。
わたしの中で「あの時に動いてよかった」という気持ちで送り出せました。
認知症ながらも葬儀に参列して何度も、何度も「だれがなくなったの?」と聞き、「お義父だよ。」というと「とうちゃん?」と自分の父親のところに戻り、「ちがうよ。あなたの旦那さんだよ」というと、一瞬にして「なんで私を置いて先にいくの!私も連れてって!」と異常と思えるほどの号泣と罪悪感のところに入り、ものの数分で「だれがなくなったの?」とまた、同じところに戻っていく。
そして葬儀の1週間後、義母は入所施設で転倒し大腿部頸骨折となり、入院しました。
あーそういうことなんだ。
多くの看取りをしてきた経験から、長い間、連れ添った相手が亡くなると後をおうように亡くなられたり、
何かしらの出来事が起こる事はとてもたくさんあって
その時は「仕方ないよね」ということしか知らなかった。
心を学び、人としての存在を学び、『自分を癒す』ということを続けて10年。
この『仕方ない』ことは『タイミングが合わない』ということなんだという理解ができた。
この世界は完璧でどんな出来事もどれだけ、残酷なことであっても、自分が引き寄せている。
ここに怒りや憤り、被害者意識から加害者を作り出したり
自分ではどうにもならないこととして、自己責任を放棄して何も感じないようにし、罪悪感で自分で自分を罰して心や身体を痛めつけていく。
本当はどうしたいのか
本当はどう感じているのか
ここから遠く遠くに自分を置いていく。
認知症という病気になるまでのパターンの積み重ねがあり
そのパターンであることすら気づかないでここまできて、『人生のタイミング』がこうやって痛い出来事となっていく。
『自分を癒す』ということが、いづれくる『老い』の時に無意識下で『タイミングが合う』という現実を引き寄せてくるのだろう。
ただ、ただ、自分の内側を見て、ただ、ただ、自分を癒し続ける。
「なんかHITのメディカルヒーラーって修行僧みたいなんだよねー」
と言われて、めちゃくちゃ笑えたけど
目の前にはタイミングが合う世界が広がっているとするならば
未知の世界に行けるのかもとワクワクしかない修行僧です。
\ わたしのこころ わたしのからだ /
目に見えないけど、必ず何かが動いてる。
それが「運」と「勘」と言う、自分にはどうにもできないものだと思っていた。
持って生まれた運命は変えることはできなくて、持って生まれた生得的な感覚はどうにも自由には扱えない…そう思っていた。
それを全く覆すは学びとなったのがキャラクトロジー心理学です。
次元を超える多角的なもの見方と、生得的性格が誤解というトラウマからおこっているということ。これを自分の体験と自分の内面にひたすら、ひたすら、アクセスすることで、想像の範疇を超える現実に今いるというわたし。
そして、今まで、天職だとまで思ってきた、看護師の仕事から、人という未知なる生命体のこころと身体との繋がりのご誤解が、病気や人生の不具合に影響をしているということを知り、そこからどうしていくことが心地よい自分でいられるのだろうか。
そんな、目に見えないものから、わたしが持つ、超感覚知覚とか、身体から出てくる言葉を伝えています。